業界に痕跡を残して消えたメーカー SyQuestと死闘を繰り返したIomega

アスキー 2016年10月17日(月)11時00分配信

 前回紹介したSyQuestと、ある意味死闘を繰り返して最終的には勝利した……と言えなくもないIomegaを今回は取り上げたい。もっとも話はかなり激しい。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Iomega
Bernoulli Disk IIのカートリッジ

ベルヌーイの定理を利用した
Bernoulli Boxを開発

 IomegaはDavid Bailey氏とDavid Norton氏という2人のDavidによって創業された。2人とも元はIBMに在籍してエンジニアリングからマネジメントまで経験してきており、Bailey氏がIomegaのCEO兼社長、Norton氏が研究開発、エンジニアリング、製造、製品管理その他全部を担う副社長というポジションで、Bailey氏はともかくNorton氏のこの役職は1994年まで続いた。

 ちなみに当初の社名はDatabyte Corporationだったが、1ヵ月ほどでこれをIomegaに変更している。

 さて、Iomegaの最初の製品はBernoulli Boxである。なぜこの名前かというと、流体力学などでお世話になるベルヌーイの定理を利用しているからだ。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Iomega
Bernoulli Box A220。まさに「箱」。かなり大きい

画像の出典は、“Brutman.com

 ベルヌーイの定理は、流速が上がるほど圧力が下がるというもので、身近なところではレーシングカーがボディの下側に通す空気の速度をうまく引き上げることで、タイヤの接地圧を引き上げる(グランドエフェクトなどと言われることもある)効果を生み出している。

 Bernoulli Boxの場合は逆にディスク面とヘッドの間の流速を下げることで、ヘッドとディスクが接近すると接触しない方向に圧がかかり、ヘッドクラッシュが理論上起きないというものだった。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Iomega
こちらがカートリッジのBernoulli Disk。花王<4452>の5インチFD(左上)と比較するとその奥行きがわかる

画像の出典は、“Brutman.com

 Bernoulli Diskの中身はフロッピーディスクと同じくPET(ペットボトルの材料となるポリエチレンテレフタレート)ベースのフィルムだ。ただし、性能向上のために回転数は初期モデルで1500rpm、後期モデルは3000rpmだった。

 ちなみにFDDの場合は規格によって異なるがだいたい300~360rpmで、一部の機種には590rpmと高速なものもあったが、いずれもBernoulli Diskに比べるとはるかに低速である。

 FDDではヘッドとディスクが接したからといってすぐにどうにかなるものでもないが、1500~3000rpmで接するとメディアやヘッドを破損する可能性がある。この防止のためにベルヌーイの定理を利用したことで「原理的に接触しない」とうたった形だ。

 この方式はもともとIBMが開発しており、実用化が難しいということで放棄した技術である。2人はこの技術を拾い上げて製品化にこぎつけた。もっともIBMが放棄したのにはそれなりの理由があり、Bernoulli Diskでも実際には煩雑にヘッドクラッシュが起きたそうだ。

 さすがにヘッド側が交換になることはまれで、だいたいはカートリッジがアウトになる「だけ」だったが、そうは言ってもクラッシュしたカートリッジが読み出せないのは問題ではあった。

 話を戻すと、この原理を利用して1983年に同社が初めて世の中に送り出したのがこのBernoulli BoxとBernoulli Diskである。当初は5/10/20MBの3種類の容量がラインナップされた。

 これを生み出すまで同社は資金的にかなり苦しい状況が続いたが、製品の発売と同じ1983年には株式公開も行ない、資金はだいぶ改善した。1983年の売上は700万ドルだったが、1984年には5100万ドルに達し、営業利益も250万ドル出ている。

 Bernoulli Boxの価格は2700ドルと高価だったが、それだけの需要があったということになる。1986年の売上は1億2600万ドルまで膨れ上がった。

HDDの価格低下に押され、売上が低迷
第2世代Bernoulli Boxを投入し巻き返しを図る

 さてこの後も順調に推移するかと思いきや、HDDの価格低下にともない急速に売上げが低下することになった。1986年末における有利子負債は850万ドルとなり、株価はピークの23ドルから4ドルまで下落。1987年の最初の9ヵ月で3900万ドルの営業損失を出し、1987年度の売上げは前年比30%ダウンの8900万ドルとなった。

 在庫も積みあがったため、すべての製造施設を休止してキャッシュフロー確保に走る。結局同社はプライベートファンドから資金提供を仰いでこの窮状を切り抜けることになった。

 これにともないCEOはプライベートファンドのMichael Kucha氏が務めることになった。Kucha氏は直ちに大規模なリストラを敢行。従業員は1350人から750人まで削減され、さまざまな出費が抑えられた。ただその中でも研究開発費用だけはきちんと確保したあたりがKucha氏のバランス感覚である。

 1988年には第2世代のBernoulli BoxとBernoulli Diskが出荷開始された。こちらはサイズが一回り小さくなっており、容量も20/35/44MBと大きく増え、最終的には1枚あたり230MBまで容量を拡大している。

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Bernoulli Disk IIのカートリッジ。寸法は13.6cm×14cmで、5インチFDよりも少しだけ大きい程度に収まった

画像の出典は、“Wikipedia

 幸いにもこの第二世代のBernoulli Boxの評判は悪くなく、売上げも順調に回復し、かつリストラの効果もあって、1988年末には有利子負債を解消しながら手元資金を1800万ドルまで増やすことに成功する。

 これでIomegaの再建が一段落したと見たKucha氏はファンドの仕事に戻るべくCEOを辞任。後任にはHPからやってきたFred Wenninger氏が就いた。

 Wenninger氏は、さらに製品の生産ラインにメスを入れた。彼の指揮の下、同社は製品製造に要する時間を28日から2日未満まで削減、Bernoulli Diskのヘッド周りの流体設計の設計時間を9割近く削減、コントローラーボードの設計時間も8割削減するなど、大幅に効率の改善を成し遂げた。

 結果、同社の業績は再び改善していく。1990年には売上が1億2000万ドルまで伸びし、出荷台数はほぼ1986年と同程度まで復活した。この1990年は利益も1400万ドルとなり、再びIomegaは健全性を取り戻したかのように見えた。

 ところが1992年、第4四半期の売上げが突然下落する。同期の売上げは3750万ドルで、前年の3940万ドルに及ばなかった。また1992年通期で見ても、売上げは1億3920万ドルとわずかに増えたものの、利益は470万ドルまで下落する。

 Iomegaは直ちにリストラを行ない、1150名の従業員のうち99人を解雇するが、これで不調を押し留めることはできなかった。

 同社の不調の原因は、SyQuestとよく似ている。SyQuestはDTP向け市場に行き渡った時がピークであり、他の市場を開拓できないままにDTP向け市場の消滅にあわせて消えた格好だが、Iomegaはこれを先取りしていた。

 同社の主要な顧客は政府機関や一部の大企業に限られていた。価格は1990年代には695ドルまで落ちていたが、HDDはそれよりもはるかに安く、大容量になっていたため、コンシューマー向けの需要はほとんど皆無に近かった。

 1993年末に同社は1450万ドルの営業損失を計上、株価は再び2ドル近辺まで下落していた。ただここから猛然と反撃に出る。市場の調査により、安価で大容量、ただし速度は遅くても良いというのが求められている製品であることが判明し、Bernoulli Diskとはまったく異なる新しい製品の開発を始める。

どん底からの起死回生
zipドライブが会社を救う

 新しい製品とはZipドライブのことで、1994年末に市場投入された。ZipドライブはBernoulli Diskとはまったく異なっており、少なくともベルヌーイの原理は利用していない。

 ただSyQuestよりは安価で、ちょうどFDDとHDDの中間といったあたりか。とにかく低価格にこだわった構造であり、これが理由で初期にはClick of death(死のクリック)という現象が多発した。下の動画がそれである。

 さて、ここからIomegaは再び急成長する。Zipドライブは本体199ドル、100MBカートリッジが19.95ドル、25MBカートリッジが9.95ドルという値付けをなされたが、これは驚くほど爆発的に売れた。

 発売初日は即座に売り切れとなり、1995年1月末時点でのバックオーダーは1億7500万ドル相当に達している。結局1995年度の同社の売上げは3億6200万ドルに達した。2ドル近辺で低迷していた株価は、1995年中旬には20ドルあたりまで戻している。

 この当時のZip人気を物語る1つのエピソードとして、本体そのものではなくZipのロゴが入ったTシャツや帽子、ペンといったグッズの売上だけで8万ドルを超えていたことが挙げられる。普通は販促用に無料で配るようなものが、これだけの売上を見せるのは珍しい。

 Iomegaの建て直しを終えたWenninger氏は1994年に辞任、後任にはKim Edwards氏が就く。1996年には、より大容量のJazドライブも発表された。

 こちらは当初1GBで、後に2GBも追加されている。さらに1998年にはデスクトップ向けのテープドライブであるDitto(Photo04)、1999年には超小型メディアであるClik!など、さまざまなラインナップを拡充していく。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Iomega
日本ではさほどなじみがないが、最終的には容量10GBのテープも発売された

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 こうしたラインナップの充実もあって、1996年の売上げは12億ドル、翌1997年には17億ドルもの売上に達している。その1997年の営業利益は1億7000万ドルを超えており、なるほどSyQuestがひとたまりもないわけである。

 国内の話をすると、1995年にはセイコーエプソン<6724>と代理店契約を結んでおり、1996年には日本法人としてアイオメガ株式会社も設立され、国内でも本格的に拡販がはじまっている。

 ちなみにこの1996年5月には、株式分割を行なったにも関わらず株価が82.6ドルまで高騰しており、このあたりがIomegaの頂点といっていいだろう。

フラッシュメモリーの台頭で
世代交代の波に飲まれる

 ではこの後どうなったか? ということで、おなじみForm 10-K(有価証券報告書)から売上と営業利益、社員数を拾ってみた結果がこちらである。

 1998年の突然の赤字転落の責任を取る形で、Edwards氏も1998年に辞任。後任にはRockwell Automationから来たJodie K. Glore氏が就くが、一度衰退傾向が出てきた会社の勢いを止めるのは難しかった。

 なにが理由であったかといえば、これまた「市場の飽和」に尽きる。2000年の製品別売上を抜き出すと、純粋にすべての製品の売れ行きが落ちていることがわかる。

 CD-RWは1999年に投入された外付けのCD-RWドライブのことだが、もうZipともJazともなにも関係のない、単なるPCの周辺機器である。こうしたもので売上を持たせようとしたのだが、焼け石に水であった。

 ではなぜで飽和したかというと、フラッシュメモリーの台頭である。1990年中旬から投入されたさまざまなフラッシュメモリーベースのメモリカードは、当初こそ小容量であったが、毎年倍増に近い勢いで容量を増やし、これを利用するデジタルカメラの普及もあって、あっという間にZipの容量に追いついた。

 CompactFlashを例に取れば、1994年の発表時には2MBの容量だったのが、2000年にはすでに256MBが登場している。2002年には1GBのものも投入されており、これまでZipやJazなどを利用してきた用途がこうしたメモリカードで代替できるようになってきた。

 2000年頃にはもっと汎用的なUSB Flash Drive(いわゆるUSBメモリー)も広く普及するようになっており、もはやリムーバブルメディアそのものの需要がなくなった。

 Glore氏も2001年3月に辞任、後任には当時CFOだったBruce R. Albertson氏が就くが、Albertson氏も同年5月に辞任という具合に、同社はこのあたりから完全にマネジメント層が事実上不在の状況が続き、急激に売上げを失っていく。

 社員数の激減も、リストラによるものも少なくなかったが、自発的に辞任した人も多かったと聞く。それでも倒産する前に、EMCに買収されただけまだマシというところか。

 EMC買収後の2013年、LenovoとタイアップしたベンチャーであるLenovoEMCにIomegaのブランドは移管されており、現在もIomegaの名前を冠した製品が存在する。ただ、果たしてそのブランド名にどこまで意味があるのか、筆者には正直わかりかねる。

アスキー
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    最終更新: 2016年10月17日(月)11時00分

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