業界に痕跡を残して消えたメーカー BIOSで功績を残したPhoenix

アスキー 12月12日(月)11時00分配信

 今回の業界に痕跡を残して消えたメーカーは、まだ現存している企業ではあるのだが、PC互換機という市場の成立にとてつもなく大きな功績を残したと言う意味では欠くことができないPhoenix Technologiesを紹介する。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Phoenix BIOS
Phoenix Technologies

最初はBIOSではなくOSメーカーだった
Phoenix

 Phoenix Technologies Ltd.はNeil J. Colvin氏により1979年に創業された。Phoenixの前に、Colvin氏はXitanというソフトウェア会社(なんでも当時、世界で4番目のマイコンの会社だったらしい)を作り、ついで1978年にはK-Systemという会社を興している。

 Xitanは一応分類的にはソフトウェアの会社だが、時期的にはまだマイコンという市場が立ち上がったばかりの時期で、メジャーな製品はMITSのAltair 8800やApple Computer程度だった時期なので、実際にはソフトウェアだけではなくハードウェアの製造も手がけていたらしい。

 続くK-Systemでは、こうしたシステム向けのコンパイラの開発と販売を行なったらしいが、どちらもあまりうまくは行かなかったようだ。ただそうした失敗にも関わらず、再び会社を興すにあたって“Phoenix(不死鳥)”という名前を付けるあたりが、Colvin氏の負けん気をうかがわせる。

 そのPhoenix Technologiesでは最初の社員としてXitan時代の従業員だったDave Hirschman氏を雇いいれてオペレーションを開始する。当初のビジネスはDOSであった。同社はSCP(Seatle Computer Products)から同社の86-DOSのライセンスを取得し、これをカスタマイズしたPDOS(Phoenix DOS)という製品を販売した。

 ターゲットは1981年に発売されたIBM-PCである。ただIBM-PC向けには、同じくSCPからライセンスを受け、これをカスタマイズしたマイクロソフトのMS-DOSが主流になってしまい、PDOSそのものの売上は芳しくなく、ビジネスとしてはうまくいかなかった。

 同社は同時期に、単にDOSだけではなくエディターであるPMateやC言語のランタイムライブラリーであるPForCe、リンカ(コンパイルしたプログラムを実行モジュールにするためのツール)であるPLink-86、スクリーンデバッガーのPfix-86といった開発ツールも提供するが、これもまたおもいっきりMS-DOSのビジネスと被ることになり、この時期は目立った売上はたっていない。

 同社の売上が飛躍的に伸びたのは、互換BIOSの開発に成功してからである。連載367回のCOMPAQの時にも説明したが、IBMはBlue Bookの中でIBM-PCのすべての回路図を公開することで、拡張ボードメーカーやソフトウェアメーカーなどの便宜を図った。

 この中にはBIOSのソースコードも含まれており、特にボードメーカーはこの情報を利用して自社の製品の開発が可能になったわけだが、PC互換機を作ろうとするとこのBIOSが公開されていることが逆にボトルネックになった。

 BIOSコードそのものは著作権で保護されており、そのまま流用するわけにはいかないためだ。また互換機メーカーの中にはIBMからこのBIOSのライセンスを受けて製造するところもあった。国内では松下電器産業がIBMからライセンスを取得している。しかしライセンスは高価であって、松下のような大企業はともかく中小メーカーにはなかなか支払える金額ではなかった。

 COMPAQはBIOSを自社開発することに決めたが、同じように互換BIOSを開発して売ればビジネスになる、という決断を早い時期にColvin氏は行なったらしい。正確な時期は不明だが、IBM-PCが発売されて間もない時期に、同社はBIOSのリバースエンジニアリングと、これに基づく互換BIOSの開発を始める。このリバースエンジニアリングチームを率いたのがHirschman氏だったそうだ。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Phoenix BIOS
Phoenix BIOS

PCの起動に必要不可欠な
BIOS

 ちなみに最近の読者は、そもそもBIOSをご存じない方もおられるかと思うので、説明しておこう。BIOSには大別して2つの役割がある。1つはPCが立ち上がるときに、システムの初期化をする作業である。

 いわゆるBIOSセットアップにあたるものがこれで、これはチップセットやボード上の周辺回路などに初期化パラメーターを与えたり、初期化ルーチンを実行したりして、最終的にFDDやHDDからブートローダーを読み込んで、そこに制御を移すまでの一連の作業を担う。これだけであればBIOSという名称にはならない。ただの初期化ルーチンである。

 もう1つの役割がBIOS(Basic Input/Output System)の名称として知られている部分だ。こちらはPC上の基本的な入出力を担う。例えばMS-DOSで画面になにか文字を出したいと思った場合、以下の動作になる。

 こうした、割り込みを使って基本的なサービスを提供する仕組みをファンクションコールと呼んでいるが、IBM-PCではこのファンクションコールの形で画面表示、キーボード入力、ディスク(FDD/HDD)入出力、AUX(RS-232C)入出力、プリンター出力などのサービスが提供されていた。

 ちなみにINT 21HだけでなくINT 20H~2FHまで16種類の割り込みがファンクションコール用に予約されており、それぞれの割り込みごとに最大256種類のサービスが提供可能であるが、さすがにこれを全部使い切っているわけではなく、その一部だけが提供される形だ。

 MS-DOSはこのIBM-PCのファンクションコールを利用する形で実装されていた。つまりIBM-PCとソフトウェア互換を保つためには、このファンクションコールも同等に実装しないといけない。

 1980年代、国内でも多くの企業が独自のMS-DOSマシンを出し、それぞれがまったく互換性がなかったのは、このファンクションコールに互換性がないためというのが最初の問題である。他にも、機種ごとに独自の拡張をしている部分の互換性の問題もあった。ただ逆に言えばファンクションコールの部分だけ手直しすれば、IBM-PC用のソフトが動いたりもした。

 MS-DOSの初期のアプリケーションに、Micropro InternationalのWordStartというワープロソフトと、その前身にあたるスクリーンエディターのWordMasterというソフトがあったのだが、確かWordMasterの方はIBM-PC版のソースコードの中で、ファンクションコールを行なっている3ヵ所ほどを書き換えるだけでPC-9801上で動いたなんて話があったように記憶している。

業界に痕跡を残して消えたメーカー Phoenix BIOS
Phoenix BIOS「D686」

画像の出典は、“Wikipedia

IBM以外で唯一のBIOSメーカーとして
成功を収める

 話を戻すと、BIOSそのものを記述することはそう難しくないのだが、それをIBM-PCと互換にしないとIBM-PC用のソフトが使えず、かといってBIOSを流用すると訴えられるわけで各社困っていたわけだが、Phoenixは完全に法的にクリーンな方法で互換のBIOSを実装することに成功し、1984年5月から出荷している。

 もっとも当初は、互換機メーカーからの売上が29万ドルあったそうだが、IBMと法的に争うことになった場合に備えて200万ドルの保険を掛けていたそうである。互換機メーカーは、この保険額を見て安心して発注するということだったそうで、なかなか大変な時代だったわけだ。

 互換BIOSにはもう1つメリットがあった。もともとのIBM-PCのBIOSは、当然ながら回路的にIBM-PCと同じものでなければ動かないので、いろいろ改良したり変更したりできない(もちろん高額なライセンスを受ければ書き換えることも可能になるが)。

 ところが互換BIOSならこれをもっと手軽に行なえることになる。実際Phoenix Technologiesの売上は、単に互換BIOSの販売だけでなく、BIOSのカスタマイズも結構大きなものになったらしい。

 これにC&TOPTiといった互換チップセットメーカーとの組み合わせで、いきなり低価格・高性能なPC互換機やPC/AT互換機が出現することになった。この時期まだ同社は株式公開をしていないので正確な業績はわからないのだが、“Rapidly growth”(急激に伸びた)という表現をしているから、かなり大きくなったものと思われる。

 ちなみにこの時期同社は、IBMのBlue Bookに似たマニュアルを、やはり書籍の形で出している。今は米amazonで探してもさすがに見つからないのだが、だいぶ後に出た“ABIOS for IBM PS/2 Computers and Compatibles”や“CBIOS for IBM PS/2 Computers and Compatiblese”は、当時日本では丸善や書泉グランデなどで取り扱いがあった。

 なにしろインターネットがない時代なので、AT互換機上でのハードウェアやソフトウェアを開発するにあたって必要な情報は、こうした書籍の形で配布の必要があったわけだ。ちなみにABIOSはAdvanced BIOS、CBIOSはCompatible BIOSの略で、CBIOSがIBM-PCと同じ機能を持ったもの、ABIOSはこれにPhoenix独自の拡張機能を加えたものである。

AwardとAMI<3773>が台頭
経営の立て直しを図る

 さて、話をPhoenix Technologiesに戻すと、1984年以降の互換機にはほぼ採用されていたわけで、PC市場の広がりにあわせて同社の互換BIOSの売上げもどんどん増えていった形だが、同社はこれにとどまらず非x86向けのBIOSの開発や、PCエミュレーションソフトの開発なども手がけている。

 エミュレーターはSoftPCという名称で販売していたが、最終的にInsignia Systemsに売却された。さらに1987年以降は企業買収も積極的に行なうようになっており、さまざまな会社を買収し、さらにはプリンタエミュレーターや出版部門(Phoenix Publishng division)など、なにかよくわからない部門まで創設されている。

 こうした多角化のお陰でか、1988年に株式公開を行なったところ、一株あたり18.75ドルの株価がついたという。

 ただし、この頃になると競合メーカーも出てきはじめた。1983年にはAward Software International Inc.が、1985年にはAmerican Megatrends Inc.(AMI<3773>)がそれぞれ創業され、どちらも互換BIOSの開発と販売に乗り出している。

 もう少し後にはMicroid Researchも参入するが、ここは大きなシェアを獲得する前に撤退しているので、勘定に入れる必要はないだろうが、それにしてもこれまで1社で獲得していたシェアを3社で分け合うとなると、PC市場そのものが成長傾向とはいえ売上は落ちることになる。

 特に1989年はAWARDのシェアが結構伸びたこともあり、805.7万ドルの利益を上げていた1988年から一転して、1989年には768.4万ドルの損失計上、株価は3.75ドルまで下落した。

 創業者のColvin氏は新規株式公開のタイミングでCEOを辞めており(ただし取締役会議長には留任)、後任は1982年から同社で社長を務めていたLance Hanscheが昇格していたが、彼は僅か6週間で退任となり、後任にはイーストマンコダックの子会社であるInteractive Systems Corporationで社長を務めていたRonald D. Fisher氏が就くことになった。

 ちなみにこのFisher氏、現在はSoftbank Holding Incの社長であり、ソフトバンクの取締役である。さてそのFisher氏はPhoenixの建て直しを急ぐ。

 1989年に急激に業績が悪化した理由は、競合のBIOSに比べて機能あるいは性能が劣っていたことであり、まずはこれの建て直しを図った。ここでいう機能や性能とは、次々と登場する新しい技術、例えばCD-ROMドライブからのブート機能への対応が遅れたとか、新しいチップセットやCPUへの対応が遅れたという話である。

 これは社内のエンジニアリングリソースがさまざまな製品群に向けて分散されてしまったのが主要因であり、そこで改めてBIOSをコア事業と位置づけて開発リソースを集中させる一方、あまり業績に貢献していないさまざまな製品を廃止あるいは売却している。

 こうした方針により、1991年から業績は大分回復してきた。1995年の有価証券報告書(Form 10-K)によれば、1991~1995年の決算は以下のようになっている。

 1994年度で出版部門を売却してしまったので、売上そのものは1995年に半分ほどになっているのだが、利益はむしろ増えていることからもわかる通り、出版部門は売上は立つもののあまり儲かっておらず、これを切り離したことで財務上はむしろ健全化している。

 1992年以降は営業損益の黒字化を果たしたことで、同社は再びM&Aを手がけられるようになった。ちなみに売却先は、これまたソフトバンク<9984>で3000万ドルだったそうだ。

ライバルのAwardを買収

 健全化した財務状況の下で、最初に買収したのがQuadtel Corporationである。ここはPhoenixよりも優れたBIOSコードを保有している非上場企業で、株式交換の形で買収。QuadtelのBIOSをベースに1993年にPhoenixBIOS 4.0をリリースした。

 このPhoenixBIOS 4.0によって、他社のBIOSに比べて見劣りしていた部分の補完に成功、結果として大分シェアを戻すことができている。また1993年からは海外拠点を増強し、日本を含む複数のアジア拠点も立ち上げている。

 こうした復調への筋道が立ったとみたのか、1995年にFisher氏は辞任、後継は1990年から同社の海外営業部門のトップを勤めていたJack Kay氏が昇格した。Kay氏もまた順調に会社を伸ばしてゆく。同じく有価証券報告書では以下の数字が並ぶ。

 1998年と1999年に損益が大分減っているのは、大きな買収があったためだ。このうち1998年のものは、かつて競合だったAward Software International Inc.を株式交換の形で買収した。

 Awardは1996年には株式公開するなど頑張っていたが、ちょうどPhonenixBIOS 4.0と入れ替わりになるように次第にシェアを落としつつあった。

 そもそも買収できた、つまり独占禁止法に引っかからなかったというあたりが、Awardにすでに往年の勢いがなくなっていたことの表れでもあるのだが、それでも低価格向けを中心にAwardは根強い人気があり、PhoenixBIOSとAward BIOSの2枚看板とするのは、悪くない状況だった。

 また1996年からは新たにServiceという部門の売上が立っている。これはSemiconductor IP Divisionという部門の売上で、ここはUSBやIEEE1394といった周辺回路類のIPを提供するビジネスを行なっている。この部門の増強のために、1998年にはIPベンダーであったSand Microelectronics Incを2750万ドルで買収している。

 これに先立ち1996年にはVirtual Chip Inc.という、やはりIPの会社を買収しており、これらのIPビジネス部門は1999年に統合され、inSilicon Corporationとして子会社化された。

 この会社の立ち上げなどで1998/1999年にはだいぶ利益を落としたが、その結果としてずいぶん売上が増えたことになる。またこの頃はY2K(2000年問題)に向けてPCの入れ替え需要が急増した時期であり、当然同社の売上は伸びた。

 1999年6月にKay氏も退任。後継にはRSA Data Securityで社長を務めていたAlbert E. Sistoが就くが、このあたりからY2K問題の反動で業績は急激に悪化する。

 悪化した業績を支えるため、せっかく子会社化したinSiliconをSynopsisに売却するなどいろいろ策を講じた(この結果としてServiceの売上が2002年以降急激に減っている)が、これを補うべくセキュリティー関連などに力を入れていくようになる。

UEFIの出現でBIOSはお役御免

 ただ長期的に見るとPC自身の売上の鈍化や、BIOSそのもののニーズの低下などから、同社の売上は次第に減少していった。このうちBIOSのニーズの低下とはなにかというと、UEFIの出現である。

 UEFIはいろいろメリットがあるが、大きなものとしてプログラムサイズの制約が大幅になくなったことが挙げられる。従来のBIOSは、極めて限られたメモリー量の中に必要な処理や設定を全部盛り込む必要があり、最適化には高度な技術が必要で、そこらのエンジニアがぽっと作れるようなものではなかった。

 ところがUEFIではこのあたりの制約が全部取っ払われてしまい、高級言語とライブラリーを使ってGUIまで利用できるという便利な環境になった。

 こうなると、最初にツールキットさえ購入すれば、あとはBIOSメーカーに頼まなくてもマザーボードメーカーが自社でBIOSの開発やメンテナンスが可能になるというわけで、すでにマザーボードの数量が出ても、同社の売上に結びつきにくい状況に陥ってきたわけだ。

 結局同社は2010年、Marlin Equity Partnersというプライベートファンドに買収されて非上場企業化している。買収金額はおよそ1億3900万ドル。買収直前の株価は3.02ドルというあたりであった。

 2010年の第3四半期(2010年4~6月)の売上は1370万ドルで、単純に4倍しても5500万ドル未満といったあたりでしかない。それでもまだしっかりビジネスが続いているあたりはたいしたものである。

アスキー
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    最終更新: 12月12日(月)11時00分

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