デヴィッド・ボウイからパンクの移行は商業ロックへの反動だった

アスキー 12月18日(日)12時00分配信

 インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。

 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。

「ロックはミニコミ」早過ぎるインターネット作った橘川幸夫が語る
「おしゃべりマガジン ポンプ!」。発行社は、現代新社。JICC出版局(現在の宝島社)の子会社だった。現代新社は現在は洋泉社になっている。刊行期間は1978年12月から1985年7月まで

 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。

 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう!

 ということで連載第5回は、いよいよロッキング・オンに見切りをつけて、純粋な投稿型雑誌を目指すまでの話。

過去の記事はこちら。
1回目 「ロックはミニコミ」早過ぎるインターネット作った橘川幸夫が語る
2回目 深夜放送はイノベーション、橘川幸夫が語る1960年代のラジオ
3回目 「締切は不愉快」 いま明かされるロッキング・オン創刊秘話
4回目 新しい技術を使って儲けるために知っておくべきコツ

デヴィッド・ボウイからパンクの移行は商業ロックへの反動だった
ポンプから生まれた有名人の代表が漫画家の岡崎京子。プロの漫画家としてデビューする以前から常連投稿者として人気が高かった。2015年に世田谷文学館から始まった巡回展示「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」が福岡天神の三菱地所<8802>アルティアムで開催中。会期は2017年1月22日(日)まで。彼女のエピソードは橘川幸夫近著「ロッキング・オンの時代」でも読める(画像は公式サイトより)

すべての言葉は語り尽くされている

橘川 1970年代のロッキング・オンって、読者投稿を呼びかけていたから、いろんな投稿が集まったけど、つまんない原稿も来るだろ?

四本 ああ、山のようにね。今は知らんけど。

橘川 写植を覚えたことによって、いろいろ発見するんだけど、まず悩んだことがあるんだ。そのつまんない原稿をそのまま打つのがいい写植屋なのか、おもしろくしてあげるのがいい写植屋なのか。で、俺は機械に徹するんだと、涙を流しながら投稿してきた四本の原稿を打っていたわけだよ。

四本 あはははははは!

橘川 まあ、お前が高校生のときまでの話な。

四本 おかげで、どんなヤバい文章でも書いたまんま活字になるからおもしろかったよなー。

橘川 それで知ったのは、手書きとの違いだ。写植は文字盤にあるものしか書けないんだよ。フォントの制限があるからな。でも手書きって、間違いも含めて無限の種類の文字が書けるんだよ。フォントがないから。ところが写植から始まるデジタルのテキストというのは、すべてが用意されたものの組み合わせであって、オリジナルではない。つまり機械でものを書くのは、コラージュなんだよ。それが大事な話なんだ。

西牧 すべての表現はあらかじめ存在していると。

橘川 その中のひとつを選ぶということなんだ。それまで手書きでやってきた時代の表現者は、自分の書くものはオリジナルだと思っていた。機械で始めるとそれはありえないことがわかる。文字の組み合わせというのは計算できるわけだよ、順列組み合わせで。これが違う。すべての言葉は語り尽くされている。それを私は22歳でそれに気がついたんだ。どうだ、すごいだろう!

デヴィッド・ボウイからパンクの移行は商業ロックへの反動だった
どうだすごいだろう! いつもとポーズが違う橘川さんです

四本 ちょっと話はずれるけど、ワープロを使い始めた1980年代の半ば頃は「気持ちが通ってない」「手書きのほうが温もりがある」なんて編集に言われたよね。最終的に活字にするんだから同じなのに。

橘川 俺はさ、写植の打ちおろしで原稿を書いていて、原稿を依頼されると写植で打って渡していたんだ。

西牧 編集者の手間が省けていいですね。

橘川 手紙も写植で打っていたからな。まあ手紙は郵便で送るんだけどさ、君たちよりずっと早く、デジダル技術をプライベートで使っていたんだ。すごいだろ。

西牧 手紙まで写植ですか……。

橘川 昔から極端なんですよ。で、なんの話だっけ?

四本 まだロッキング・オンの話の途中です。

リアルなメディアにはナマモノも来る

橘川 ロッキング・オンは4人で作ったんだけど、4人バラバラでほとんど編集会議したことがないんだよ。

西牧 ええーっ。

橘川 みんなで編集会議すると潰れちゃうから。

四本 喧嘩になるんだってさ。

橘川 だから、個別には付き合うんだけど、全員で方向性会議なんかしない。まあ、それも途中から変わっちゃうんだけど、俺らは演奏もできないし歌も下手だ。でもロックがやりたい。だから俺らは言葉でロックをやるんだという、そういう話でロッキング・オンは始まったんだけどな。

四本 1970年代は音楽雑誌というより思想誌っぽい感じだったよね。

橘川 だから、おまえらも参加しろと。ロックファンによるロックファンのためのロック雑誌だったからな。それで投稿雑誌のはしりをやっていたわけだ。俺がチェックして渋谷と相談して原稿の採用を決めると。そこに北海道の高校生だったクソガキの四本が投稿してきたりして、だんだん伸びてきたわけだ。四本は読者人気で俺より上だったんだから。そしたらすごいよ、投稿以外にもいろんなものが来るんだ。

西牧 と、申しますと。

橘川 俺の家が写植屋兼編集部でさ、俺は1970年代にロック雑誌の編集部に住んでいたんだよ。するとね、夜中にラリパッパのお兄ちゃんが来てさ。ドアをドンドン叩くしさ、なんかお巡りさんは来るわ、「こちらにうちの娘は来ていませんでしょうか」と親は来るわで。

西牧 あららら。家出少女まで。

橘川 お母さんに「ロッキング・オンに行くとか書き置きがあったんですか?」と聞いたら、なんの書き置きもなく消えちゃったと。でも机の上にロッキング・オンが一冊置いてあった。手がかりがそれしかない。それで編集部に来たわけだよ。美しい話でしょ。

「締切は不愉快」 いま明かされるロッキング・オン創刊秘話
家出捜索の手がかりにもなった薄い本

西牧 ううーん、それはどうでしょうか。

橘川 まあ、そういう対応を俺が全部やっていたわけだよ、一人でさ。それも一種の参加型だな。ちょっと電波の入った電話もいっぱいあるし、カミソリも送られて来るし、いまのネットにあるようなことは全部あったわけだ。お母さんや警察も含めてね。

西牧 原稿だけではなく。

橘川 リアルも来るわけですよ、ナマモノが。

四本 ネットでデジタルだと、まだ3Dプリンタのデータがやっとだもんね。

パンクが出てきてロックから離れる

橘川 まあ、そうやってロッキング・オンを続けているうちに、岩谷宏がデヴィッド・ボウイというのを紹介して、ほらすげえと。

四本 ミーハーなねーちゃんが騒いでいるだけのケバいアイドルかと思ったら、歌の中身がまるきりメディア論だったと。

橘川 それで俺らはデヴィッド・ボウイ狂になったわけだ。そして1970年代の後半になってパンクの時代になるんだけど、初めはよくわからなかったんだよ。ピストルズとかクラッシュとかさ。俺はブリティッシュ・ロックから入ってクラウス・シュルツみたいなドイツの音楽とか、1970年代的な時代感覚の中で、そんなのばっかり聴いていたから。パンクがなにかすごいというのはわかるんだけど、なんですごいのかよくわからなかった。

四本 はい、ここから大事な話ですよ、西牧くん。

西牧 あ、はい。

橘川 でも考えてみると、彼らはロックの始まりの時代を見て、デヴィッド・ボウイなんかの影響を受けて育った次の世代なわけですよ。だから、それまでの社会的なムーブメントが商業化してビジネスになっていったことに抵抗があって、もう一回ちゃぶ台をひっくり返したわけだな。そんな風にパンクが出てきて、俺もロックという商業主義的な音楽はこれで限界だろうと。それでロックから離れようと考えたわけね。音楽以外でもロックができるんじゃないかと思ったんだ。

西牧 それでロッキング・オンを辞めるんですか?

橘川 でもミニコミ以降ロッキング・オンに至るまでの、読者投稿や参加型という仕組には可能性を感じたんで、渋谷にさ、ロックを外そうと。ロックを外した投稿雑誌をやろうという話を持っていったんだ。

(それではここでデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」をお聴き下さい。続きはまた来週!)



アスキー
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    最終更新: 12月18日(日)12時00分

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