業界に痕跡を残して消えたメーカー 買収で事業を拡大し自社株買収で沈んだミニコンメーカーPrime

アスキー 2017年11月13日(月)12時00分配信

 今回紹介するPrime Computerはこれまでに2回、名前が出てきている。1回目はBob Rau博士のCydromeで、同社のCydra 5向けに資金提供していたのがPrime Computerだった。

 2回目は連載425回で、John William Poduska Sr.博士がApollo Computerの前に創業した会社、という位置付けだ。

Multicsを開発したメンバーが
低価格なミニコンピューターを製造

 話は1964年代に遡る。GEとBell研究所、MIT(マサチューセッツ工科大学)はまったく新しい、Multicsと呼ばれるOSの開発を始める。UNIXとの対比(Multics開発の過程で得られた反省を元に、機能のシンプルな実装を目指してUNIXは作られた)としてその名前は知られている。

 ちなみに誤解されている節もあるが、Multicsそのものの開発はBell研究所こそプロジェクトから脱落したものの、MITとGEで引き続き行なわれ、最終的にHoneywellやGEのマシンに搭載されることになった。

 William Poduska博士ら数名はまさにこのMulticsプロジェクトに関わって働いていた。プロジェクトが終了した1970年台の初期に彼らは相次いでMITを離れるが、そうしたメンバーが集まって作られたのがPrime Computerである。

 創業は1972年で、創業メンバーはRobert Baron氏(CEO)、Sidney Halligan氏(営業担当副社長)、James Campbell氏(マーケティングディレクター)、Joseph Cashen氏(ハードウェアエンジニアリング担当副社長)、Robert Berkowitz氏(製造担当副社長)、William Poduska氏(ソフトウェアエンジニアリング担当副社長)、John Carter氏(人事担当ディレクター)の7人である。

 1970年代前半というのは、従来のIBMやCDCといった大型なコンピューターが幅を利かせていた市場に、DECやData Generalといったメーカーが16bitの低価格マシンで斬り込みをかけ始めた時代である。

 この市場にPrime Computerは、まず最初は16bitのPrime 200というマシンで参入した。ちなみにPrime 200、アドレスは32bit、データは16bitというやや変則的な構成で、これもあって32bitマシンとする向きもあるが、Prime Computerが出した資料そのものに“The PRIME 200 is a fully parallel, 100% rnicroprogrammed, 16-bit computer.”とあるので、16bitマシンとしたいと思う。

業界に痕跡を残して消えたメーカー 買収で事業を拡大し自社株買収で沈んだミニコンメーカーPrime
Prime 200のブロック構成。メモリーは8KWord(16KByte)単位で最大64KBまで実装可能。アクセス時間750ナノ秒のMOS Memoryが搭載された

画像の出典は、Computer History Museumの“Prime 200 small computer

 性能そのものはそれほど高くなかった(0.1MIPS程度と言われている)が、フルプログラマブルの命令セット(すべての命令が64bitのマイクロコードで格納されている)、64レベルのプライオリティー付き割り込み管理、FPUの搭載など、当時としては先進的な機能も搭載されていた。

業界に痕跡を残して消えたメーカー 買収で事業を拡大し自社株買収で沈んだミニコンメーカーPrime
マイクロコードの構成。上の画像でプロセッサーの右にこのマイクロコードのストアー領域があるのがわかる

画像の出典は、Computer History Museumの“Prime 200 small computer

 ただ、Prime 200の場合はそのハードウェアよりもソフトウェア<3733>がメインだった。下の画像がPrime 200のモットーである。そのOSはPrimosと呼ばれていたが、当然ながらこれはMulticsの影響を強く受けるものであった。

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Prime 200のモットー。あくまでもハードウェアはソフトウェア<3733>に従属するもので、ソフトウェア<3733>環境そのものが同社の販売物である、と明確に断じているあたりが潔い

画像の出典は、Computer History Museumの“Prime 200 small computer

 もちろんMulticsそのものではなく、開発陣(主にPoduska博士)は彼らなりにMulticsの利点と欠点を見極め、その結果としてPrimosを生み出している。部分的にはUNIXのような面も持っていたが、同じくMulticsの反省から生まれたUNIXとはいろいろ異なる部分もあった。

5年間で売上が1900倍に急成長
世界7位のコンピューターメーカーに

 Prime 200に続き、1973年にはメモリーのパリティーを省いたり、CPUからFPUを省いたりして低価格化したPrime 100と、逆にメモリーを最大1MBに強化し、性能も2.5倍(それでも0.25MIPS)に引き上げたPrime 300をリリースする。

 このあたりから同社のニーズは急に増え始め、1976年に投入されたPrime 400ではさらに性能が強化され(0.5MIPS)、翌1977年にはPrime 500(0.6MIPS)も投入、売上も急増した。

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英Atlas Computer Laboratoryに設置されたPrime 400

画像の出典は、“Computing at Chilton: 1961-2000

 ちなみにどのタイミングかははっきりわからないのだが、Prime 500はすでに同社は32bitマシンと称しており、どこかで32bit拡張が行なわれたようだ。

 Primeの1972~1976年の売上記録が残っているのだが、数字をピックアップすると以下のようになっている。5年間で売上は1900倍にも達し、1976年には累積赤字も一掃するという大躍進を遂げることになった。

 この売上増を受けて、同社は1979年に“50 Series”と呼ばれるPrime 450/550/650/750を発表する。従来のPrime 300/400/500のアップグレード版にあたり、プロセッサー性能とメモリー容量、さらにストレージの強化が図られたバージョンである。

 ハイエンドのPrime 750では性能がついに1MIPSに達し、前年にDECの発表したVAX11/780と互角とされた。1980年には、PRIMENETと呼ばれる、Primeのマシン同士をX.25回線経由で接続するソフトウェア<3733>、さらにLANに相当するRINGNETというローカルの接続もサポートするようになる。

 特にPRIMENETの上ではIPSS/Telenet(*)というサービスが利用可能だった。IPSSはInternational Packet Switching Serviceの略で、もとは英国のBritish Telecomが開始した英国内の電話回線によるデータ転送サービス(PSS<7707>:Packet Switching Service)を全世界に拡張したものである。

(*)telnetではなくTelenet。Unixの上で動くターミナルサービスではなく、そういう名前のサービスである。

 同じ1980年には、ローエンド向けのPrime 150/250(どちらも0.5MIPS)を、翌1981年にはPrime 750をデュアルプロセッサー化したPrime 850も発表された。

 1978年の同社の売上げは5000万ドルを超え、これが1979年になると1億ドルを突破して1億5300万ドル、純利益も1700万ドルに達している。同社はこの時点で世界で7番目の規模のコンピューターメーカーになっていた。

 実はこの躍進の影の立役者は、Baron氏に代わって1975年から同社のCEOに就いたKenneth G. Fisher氏である。彼は就任半年で同社を黒字に持っていき、その後急速に売上を伸ばしていったが、ただFisher氏と取締役会の関係は、控えめに言ってもあまりよろしくなかった。

 1つは、もともとのPrime Computerのモットーが先ほどの画像にあるように、使いやすいソフトウェア<3733>を提供することが目的(ハードウェアはそのための手段)だったのだが、Fisher氏はハードウェアを売って利益を稼ぐ(ソフトウェア<3733>はハードウェアを売るための手段)という、一般的に良くある考えの持ち主だったことだ。

 このFisher氏の下で、同社のシステムの目指す市場がころころ変ったのは、取締役会としてもあまり好ましくなかったのであろう。1980年の業績は売上が2億6760万ドル、純利益が3120万ドルと引き続き絶好調だったにも関わらず、1981年6月にFisher氏は辞任する。後任には、IBMからやってきたJoe M. Hensonが就いた。ちなみにこのとき、幹部ら6人も同時に辞職している。

 Henson氏の最初の年は、引き続き絶好調であった。1981年の売上は4億3600万ドルに達し、純利益も4500万ドルになっている。ただこのあたりから、同社の方向性が変ってくる。1982年には低価格のデスクサイドマシンであるPrime 2250を、1983年にはハイエンドのPrime 9950を投入する。

業界に痕跡を残して消えたメーカー 買収で事業を拡大し自社株買収で沈んだミニコンメーカーPrime
Prime 2250。システム一式が3万8000ドルで「従来の半額」とした

画像の出典は、“Google books所蔵のComputerworld 1982年12月13日号

 その後、毎年のように性能を上げたバージョンアップ版をリリースする。Prime 2250は0.5MIPS、Prime 9950は2MIPSのマシンだったのが、1987年にリリースされたPrime 2455/2755は1.2MIPS、1986年末にリリースされたPrime 9955-IIは4MIPSとそれぞれ性能が倍増している。

 1987年には新しい6000番台のPrime 6350(11.8MIPS)とPrime 6550(23.6MIPS)も投入され、これらはSuper Mini Computerと分類されるに至る。

 ちなみにこの6000シリーズ、同社としては初のCMOSベースの製品である。また、Primosを捨ててUNIXベースのOSが提供されることになった。

 さらに同じ1987年には、インテルの80386を搭載したEXL-316という、限りなくPC/AT互換機に近いマシンが、やはりUNIXベースのOSを搭載して提供されることになった。

 この急激な方向転換はなぜかというと、同社の戦略の変更があったためだ。当初Prime Computerのマシンは、低価格ながら浮動小数点演算が可能ということで科学技術計算向けに多く利用された。

 その後はCAD/CAM分野やGIS(Geographic Information System:地図情報システム)分野のニーズが高まったことに向けて、こちらに注力するようになっていく。1982年にはMedusa design and drafting software(あるいはMedusa CAD)と呼ばれるCADソフトをリリースする。

 これは英ケンブリッジにあったCambridge Interactive Systems Ltd.という会社と共同で開発したもので、投入スケジュールは当初よりも遅れたものの、投入後は目覚しい売上を見せた。

 1985年には、さすがにもう倍々では増えないものの前年比で20%の売上増を果たした。実はこの売上は、営業とサポートのために600人もの新規採用を行なって(これで従業員は8600人ほどになった)営業攻勢をかけたことにも起因する。

CAD/CAM市場の競合メーカーを買収
IBMに次ぐ第2位の地位につく

 この頃になると、ミニコンピューター業界の構造が変わる見通しが出て来はじめており、これに対応して同社はCAD/CAM市場に集中するという戦略を立てる。この戦略のもとに、同じ市場の競合メーカーを買収するための資金集めを開始、1987年には買収費用として3億7500万ドルを集めるに至る。

 同社はまず1987年10月にVersaCAD Corporationを、同年末にはComputervision Corporationに対して3億9000万ドルでの買収を提案。さらに1988年10月にはGEの傘下でCAD/CAMソフトウェア<3733>を提供していたCalma Companyを買収する。

 Computervisionの買収は最終的に価格が4億3500万ドルまで跳ね上がったものの無事に買収に成功。同社に2000社のクライアントを新たにもたらすことになる。この買収で同社の会社規模は業界10位になり、CAD/CAM市場ではシェアを3.6%から16%に増やし、IBMに次ぐ第2位の地位に押し上げた。買収の効果もあり、同社の1987年の売上は9億6100万ドル、純利益も6500万ドルほどあった。

 問題はComputervisionの製品その他はいずれも、従来のUNIXベースで稼動していたことだ。これらをPrimeの従来のプロセッサーやPrimos上で動かすようにするのは非常に困難があった。できなくはなかったのだろうとは思うが、それを行なうために無駄に開発時間を費やすと、せっかくの買収の効果が薄れることになる。

 またComputervisionがこれまで顧客に提供してきたハードウェア/ソフトウェア<3733>とまったく互換性のない製品をいきなり売り込むのも無理があった。要するに、CAD/CAMに集中するために、従来の路線を捨てたと言っても間違いではないだろう。

企業の乗っ取り対策で自社株を買収
この返済義務が重荷になる

 この新戦略に、もう1つ余分な要素が加わった。それはMAI Basic Four, Inc.というファンドが1988年11月にPrimeを敵対的買収しようとしたことだ。最終的にPrimeは投資銀行のWhitney&Companyの助けを得てLBO(Leveraged Buyout)という手法で自社株の買収に成功、1989年末に非上場企業になる。もっともこのLBOの契約のために、同社は毎年1億2500万ドル以上の返済義務を負うことになった。

 さて、結果はどうなったか? 1988年には16億ドルあった同社の売上は、1991年には12億ドルに減り、従業員も12000人から5900人まで減っている。1988年末の報道では、従業員の10%(1200人)を削減することで、経費を5000万ドルほど削減(ただしレイオフの一時経費が4000~4500万ドルほどかかる)という話だったのが、半数以上を解雇する羽目になったわけだ。

 ここまで削減したら会社がまともに動くわけもない。従来のPrimosの動くハードウェアの改良は遅々として進まず、新たに投入されたUNIXベースのマシンは、当然他のUNIXマシンとの激しい競争にさらされるわけで、価格性能比では勝ち目がなかった。

 科学技術計算分野に向けて投資していたCydromeのCydra 5も話にならず、おまけに1980年代後半からSGIがCAD/CAMの市場を席巻し始めた。

 結局Primeは1992年8月に、ハードウェア事業には先がないと認め、ミニコンの製造から撤退。その代わりにSun MicrosystemsおよびDECと組んでCAD/CAM向けシステムのソフトウェア<3733>を開発し、これを売るというビジネスに切り替える。

 ただ、当たり前だがこんなビジネスでは売上は当然減ることになる。このままでは毎年1億2500万ドルの返済義務を果たすのはおぼつかない。

 結局1992年8月13日、同社は倒産処理手続の申請を出す。当初は日本で言うところの会社更生法の適用を目指しており、これに向けて社名もCAD/CAM分野に知名度の高かったComputervision Corporationに変更。CAD/CAM分野での生き残りを図る。

 当初の見通しでは製造部門を廃止したことで1992年の第2四半期は2000万ドルの黒字が出る予定だったのが、実際には8800万ドルの損失を出すといった具合に、もう業績の悪化は止まらなかった。

 1993年になると経営陣が一新され、この時点で4500人まで減っていた社員数をさらに2000人削減、ハードウェアの販売からも完全に手を引いた。

 ここから同社は徐々に持ち直す、というかこれ以上の悪化が避けられた。1994年の春にはロールスロイスエアロスペースとの大規模な契約にも成功し、もうしばらく生き延びることに成功した。

 最終的に1998年、PrimeはParametric Technology Corporation(PTC)に買収される。このPTCという会社は、もともとは(Prime Computerに買収される前の)Computervision Corporationの従業員によって創業されたものだった。要するにPTCはもともとのComputervisionを取り戻した、という言い方もできるかもしれない。

 PTCは現在も存続しており、ライフサイクル管理やCADなど製造業向けソリューションを提供する大手である。ただこれはオリジナルのComputervisionが目指したものでもあり、Prime Computerが途中で湧いて消えただけ、という悲しい歴史である。

アスキー
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    最終更新: 2017年11月13日(月)12時00分

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